Vol. XII, No. 85 平成十八年九月十四日

復帰した松井秀喜は四本の連続ヒットでヤンキー・ファンを熱狂させている。これでいいのだ。これが日本の前途だ。日米は更に平等に、更に交じり合い、更に強くなり、更に繁栄する。だからといって、日本が植民地になるはずがないことは経験ずみだ。他方、日本でバブルが崩壊し、全てが停滞し、世界から軽蔑されているのに、過去にこだわり、「論理よりも情緒、英語より日本語、民主主義より武士道」などと嘯くのは、見え透いたデマゴーグであり、敗者の逆恨みだ。逆恨みで勝てるならいいが、勝てなかったではないか。橋龍を見よ。日本は前進するのだ。勝つのだ。繁栄するのだ。

(1)歴史というものは一度起きたら永遠である。真実は真実だからだ。中国政府も、アメリカ政府も、文部科学省も、朝日新聞も、それを修正することはできない。日米開戦の真相、ヒロシマの惨劇は真実として永遠に残るのだ。

歴史に対する私の態度は「ディプロマシー」の著者ヘンリー・キッシンジャーと同じものだ。真実を追究するのが私の義務であり、これを捨てれば生きている意味を失う。同時に、日米間の公共の場(パブリック・ドメイン)で真実を語るわけにもいかない。だから「後世史家の判断に任せる」という処方箋をとる以外に方途はない。一種のダブル・アイデンティティーだ。

私が安倍晋三に関して持つ不安は、彼が公共の場においても、シングル・アイデンティティーに近いように見受けるからだ。

(2)歴史と正義には、もう一つの次元がある。もし(1)の意味での歴史が古典的な、静的な、永久不変な正義であるとすると、もう一つの歴史は近代的な、動的な、政治的な歴史だ。一方はアリストテレスが代表し、他方ははヘーゲルのものだ。

それは、「力は正義だ(Might is right)」、「勝てば官軍、負ければ賊軍」という規範である。アリストテレスとヘーゲルは相容れないが、双方とも絶対無視できない。特に国際関係を理解する上でヘーゲルは不可欠である。

法律、司法、警察などは主権国家の中にしか存在しない。国際間には無いのだ。国際間に法律が機能するというのは大愚であり、危険思想でもある。国際関係は、正直言うと、武力で決る。「善きにつけ、悪しきにつけ」武力で決る。

ここで「善きにつけ、悪しきにつけ」という判断は、アリストテレスの物差しである。アリストテレスはヘーゲルから独立している。キッシンジャーと私がルーズベルトの正義から独立孤高を維持しているのと同じだ。

しかし武力統治が長続きする場合、必ず正当化される。例えば、日本はアメリカが日本征服を通じて築いた秩序、パックスアメリカナをおいそれと放棄できない。今や日本の利害が密接に絡んでいるからだ。

松井秀喜は素晴らしいという理由がここにある。イラクに派遣された自衛隊の番匠幸一郎陸将補も同様だ。吉田の非武装憲法は、日本がただ乗りして貿易戦争に勝っている間は我慢できる。許せないのは、情緒として、負けていても、過去にこだわる日本民族の馬鹿さかげんである。

正義と歴史を忘れてはならない。同時に、勝っていなければならない。勝ってこそ歴史が書けるからだ。戦争に負けながら、歴史の修正主義で勝とうというのは、結局のところ、もう一度戦争に勝つか、或いは過去は過去として諦めることになる。


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