Vol. XII, No. 49 平成十八年五月十三日 公開号

片岡鉄哉のアメリカ通信 Vol. XII, No. 49 平成十八年五月十三日

旧皇族竹田家の恒泰氏の講演を聞きに行った。天皇家が何を考えているのか知りたかったからだ。答えは、象徴天皇、祭司天皇に苦情はないらしいことだ。つまり、マッカーサー憲法のままでもいいらしいのだ。この点で、天皇家とナショナリストは合意がある。双方とも、象徴天皇は明治維新より前にあった天皇制本来の姿に戻ったに過ぎないと言う。だが象徴天皇に国家権力はないし、祭司天皇は天皇家特有の宗教の祭司であり、国教会の祭司でない。この現状で60年間維持できたのだから、永遠に維持できると言えるのか。権力のないカリスマは消滅するのでないのか。なぜ天皇元首論を誰も唱えないのか。

十五年ほど前まで私は皇居のまわりを走るのが好きだった。調子がいい時には二回まわって大手門のあたりで止める。或る日、汗を拭きながら涼んでいると、黒のリムジンが低速で近づいてきた。中を見ると昭和天皇だった。私は反射的に旧軍の目礼を差し上げた。[1] 陛下は手をあげてお答えになった。嬉しかった。

私の昭和天皇と今上天皇への態度には温度差がある。これは合理的に説明のつかないものだ。私は昭和天皇は自分の父親のような気がするのだが、これは明治憲法によって刷り込まれたものだ。家鴨の子が卵から孵化して、最初に遭遇したものなら誰にでも着いていくのと同じだろう。

後日知ったことだが、昭和天皇は占領中からご逝去まで、事実上の元首であられた。戦前の元首ではなかったが、単なる象徴・祭司ではなかった。彼のマッカーサーとの頻繁な会見の話を読んでいると、昭和天皇は事実上のファースト・ディプロマットだったことがわかる。

彼は憲法で決められた象徴天皇の枠を意識して克服していたものとしか考えられない。象徴天皇を作ったマッカーサーが、象徴天皇を破壊するように仕向けていたのだ。これは凄い外交だと思う。ともかく昭和天皇は象徴天皇と戦っていたのだ。私はそう推測する。

これこそが英邁な天皇でないか。占領軍が押し付けたものを糞まじめに守るというのは小市民的な発想であり、大国のリーダーのするべきものでない。今、憲法改正が可能になるところでないか。改憲の焦点は、戦争を可能にすることだ。これは国家の機能が拡大することを意味する。つまり天皇の役割が拡大するのである。

判りますか。天皇制が象徴に制限された理由は、日本が戦争に負けたからだ。だが今や戦争が可能になるとすれば、我々の仕事は次の戦争に勝つことだ。勝てば天皇制は強化される。どうしても勝たねばならない。

日本が戦争に突入すれば、天皇が中立することは不可能である。首相と与党が天皇の支持を要求して絶対退かないであろう。二大政党の下では、戦争は必然的に「自民党政権の戦争」、或いは「民主党政権の戦争」になる。党派的なものになる。

しかし国民は「自民」や「民主」の党派的利益のために戦うのを拒否する。これは疑いない。国民の支持を勝ち取るためには、天皇の権威を借りることが不可欠になる。天皇だけが、党派を超越した国益の代弁ができる。

首相と与党は天皇の支持を要求する。だが、同時に野党は天皇の反対を要求するかも知れない。だから戦争には超党派の支持が不可欠なのだ。ともかく、絶対勝つことが不可欠なのだ。天皇が小泉の戦争を支持しながら、戦争に負けたら小沢の天下になる。これで天皇の立つ瀬はなくなる。だからどうしても勝たねばならない。

憲法改正によって天皇家と天皇制の前途には洋々たる大海原が開けるようなものだ。自分を外敵から守るのが国家の最も大事な機能であり、天皇制は国家の一部だ。これまで棚上げされていた職能が天皇制に戻ってくる。

日本が普通の国になると、同時に天皇制は蘇生するのだ。[2]


[1] 目礼では頭を下げないし、目も落とさない。相手の目をしっかり追いながら、腰から上半身を10度ほど傾ける。ドイツ軍にも共有の敬礼だった。

[2] 英国は主権在民の民主国家である。それでも、憲法の「聖なる部分」である国王には、僅かながら中世時代の国王の権限が残されている。下院が首班指名において、意思決定不能におちいった場合は国王が総理大臣を選ぶことを許される。これだけでも天皇陛下に差し上げたい。権力ゼロになったら「人畜無害」になるのだ。


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