Vol. XII, No. 3 平成十八年一月七日

年頭の第一号で、いささか過激なことを書いた。「平和主義というのは、動物としての命の安全が全ての価値に優先するという発想だ。卑しいものだ。従って、日本は戦争の火中に巻き込まれることで、命を賭けても守るに値する価値を再発見するのだ」と。

そうしたら或る名門校の教授が賛同してくださった。嬉しかった。ここに彼の便りを再録する。

Subject: Re: 片岡鉄哉のアメリカ通信【Vol. XII, No. 1】
明けましておめでとうございます。
  昨年はたいへんな年でした。とりあえず祖国は危機を脱したようです。

しかし、「聖なるもの」(=先生の「正義」)をもたない国家は、構造的な危うさを抱えつづける、と思われます。そのために生きるもの、それによって少年たちが自分の欲動を乗り超える価値はどこにあるのか?自由も民主主義も、すでにそれを持ってしまった人々にとっては、そのために命をかけるほどの聖なる価値の輝きはもはや含まれていません。むしろ、その価値の名によって卑怯とエゴイズムが正当化されるのが落ちです。

  自由と民主主義という教義は、ともすれば個々下々の「欲動」を聖なる祭壇に祀りあげる倒錯したポテンシャルを内蔵している、とみるべきでしょう。宅間守のような化け物たちが人権の陰に隠れ、人権派の弁護士や精神科医がなぜ殺人者の肩をもつのか?そういえば10年ほどまえに麻原の弁護を買って出た遠藤とかいういかれぽんちの弁護士がいましたね。フランス革命でせっかく掲げられた聖なる人権は、いまやまさに弱者の利権に成り下がってしましました。

  アメリカが比較的まだ健全なのは、他者の自由のために戦う戦士を英雄として称える気風をもつからだ、と思われます。イラクでの戦死を知らされた南部の黒人の母が、「息子が戦って犠牲になったから、私たちがこうして生きていられる」とテレビカメラの前でつぶやいていました。independentceの精神とは、まさにprotesting parasite根性の否定の上に立つ精神なのでしょう。

  日本人の多くは、平和と反映を享受できるのは「男たちが戦うことをやめたからだ」といまなお思い込んでいるようです。WGIPによって確かに日本人は洗脳されたのです。日本人は敗戦と同時に死者との絆を失った、捨ててしまったのです。戦死者と事故死者の軽重の見極めもつかなくなったのです。もらった自由と民主主義は、これほど広範に国家と文明の背骨を溶かすのですね。

  この間の温泉ガス事故、鉄道事故と(遠くは九ちゃんの日航機事故あたりから始まったようが気がします)、情緒過熱の事故報道ぶりにいらだちを感じるのはぼくだけでしょうか。命の尊さ、だけを祭り上げると、戦死者も事故死者も区別がつかなくなるようです。世界にはもっともっと重大が死がたくさんあるのに・・・そのための取材と報道に時間とお金と情熱を注ぐべきだ、と思うのですが・・・。

  プロパラ・ウィルスとはおそろしいものです。50年かけてこんなにじっくり蝕んでくるのですから。メディア記者・ジャーナリストと学者・物書きの頭がすっかりいかれてしまいました。

  先生のおっしゃるように、戦争(できれば小競り合いのワクチン程度のもの)が起これば、日本中目が覚めてみんな飛び起きるでしょう。靖国でじらされて引く引けなくなった中国の赤色軍国主義者がいずれ事を起こすような気がします。そのときまでに、なんとか仕事を仕上げて、「考える道具」として役にたつものを若者たちに手渡しておききたい、とおもいます。

  よい年になりますように。

(筆者は、多忙なので誤植のままで発表しても可という承諾を下さった。)


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